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■【漫才】中田ダイマル・ラケット 僕は幽霊.他(1978) 

      2017/09/05

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1.僕は幽霊(作・中田ダイマル、昭和53年9月「ダイ・ラケ爆笑三夜」)
2.僕は小説家(作・中田ダイマル、昭和53年9月「お笑いネットワーク」)
3.僕の農園(作・中田ダイマル、昭和53年9月「お笑いネットワーク」)
4.地球はまわる目がまわる(作・中田ダイマル、不明「お笑いネットワーク」)
5.家庭混線記(作・中田ダイマル、昭和53年9月「ダイ・ラケ爆笑三夜」)

プロフィール

・中田ダイマル(本名:中田勇夫、1913年(大正2年)12月14日 – 1982年(昭和57年)9月5日)兵庫県川辺郡小田村金楽寺生まれ。
・中田ラケット(本名:中田信夫、1920年(大正9年)3月3日 – 1997年(平成9年)2月5日)兵庫県川辺郡小田村金楽寺生まれ。

略歴

戦後の上方漫才を代表する兄弟コンビ。「爆笑王」の異名をとった。愛称は「ダイラケ」。
実家は農家で男6人女6人の12人兄弟でダイマルは7人目の三男。ラケットは10人目の六男。
ダイマルは1923年に小田第一尋常高等小学校(現在の尼崎市立下坂部小学校)中退。
1926年に近所の大阪製麻に就職、後に職を転々。
1930年に扇子屋玉四郎一座の芸人が映画俳優になり羽振りがいいのに憧れ家出でし役者を志し一座に入るも断念。
漫才の世界へ入り、兄と中田松王・梅王という漫才コンビを結成。
後に中田デパート・ダイマルと改名し1934年に天神橋五丁目葵席が初舞台。

当時はデパートは音曲漫才に憧れたがダイマルは横山エンタツ・花菱アチャコの楽器を持たない所謂しゃべくり漫才に憧れていたのでいやいやコンビを続ける。
1941年に兄が結核性の腎臓病で病死し、工員であった弟と無理やりコンビを組み、中田ダイマル・ラケットを結成した。
十三朝日座でデビュー。戦時中は地方廻りをする。
このころに後に十八番のネタになるチャールズ・チャップリンやエンタツ・アチャコの映画などを参考に「拳闘漫才」を考案し愛知の小屋でネタおろしをする。

戦後間もないころから劇団(一座)を結成、1946年には松長興業に所属し千日前南地劇場、阿倍野近畿劇場、神戸新開地劇場など小さな劇場に出る。1947年に戎橋松竹の幕間の「拳闘漫才」で話題を博し、民放テレビの黎明期の1958年(昭和33年)に、朝日放送の専属タレントとなった。
『お笑い街頭録音』『ダイラケ二等兵』『ダイラケのびっくり捕物帖』『スチャラカ社員』『ダイマル・ラケットのみんなの歌謡曲』『すかたん社員』などの番組に出演し、一世を風靡した。

「スチャラカ社員」の終了後は、テレビ出演よりも演芸場への出演に重きを置くようになり、同時に後進の指導に当たった。
1970年に松竹芸能から吉本興業に移籍。
1978年に心斎橋パルコにて、傑作ネタの数々を後世に残すために「笑学の会」主催で9月13日~15日の3日間にわたる独演会「中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜」を行い、全盛期を知らないファンに対して、ダイ・ラケ漫才健在を印象付けた。

この時は、3日間でアンコールも含めて計10席行ない、関係者、プロの芸人など、も会場に訪れ、舞台袖で生で見ていたという。
またCBSソニーからレコード化され、読売テレビと大阪放送が収録の上で放送した。

横山エンタツ・花菱アチャコ、夢路いとし・喜味こいしらの正統派しゃべくり漫才の系譜とは一線を画し、奇抜な着想から作りこんだ奇妙なシチュエーションをもとに緻密な計算の行き届いた展開や構成で笑わせるタイプの天才肌漫才であった。

初期にはボクシング漫才を舞台で行うなど、激しい動きを伴う漫才を披露していたが、ダイマルの持病の治療の為に飲み続けた副腎皮質ステロイドの影響で満月様顔貌を発症して身体が太ってしまい、体を使った漫才が演じられなくなった為、アクションの面白みは身振りの滑稽味に残しつつも、持ち前の話芸に磨きを掛けて独特なスタイルを確立した。

ダイマルの頭脳と身体(仕種の面白さもこの漫才の特徴の一つ)をフルに使った機関銃のような笑いの攻勢は、客席ばかりでなく時には相方ラケットさえ舞台上で笑わせてしまう(その様子がさらにおかしさを倍加する)ほどの凄まじい威力であった。

またダイマルのボケを受けるラケットのツッコミも絶妙な間と、時にはボケに入れ替わって笑いを取ることができるほどの上手さであった。
そのためダイ・ラケが舞台に立つと、客席の笑い声が凄すぎて小屋が揺れたという逸話が残っているほど。
客席を笑わせる間隔の短さでは、このダイ・ラケを超える漫才はいまだに登場していないと言われ、ダイ・ラケ漫才は「3秒に1回笑わせる漫才」と言われることもある。

ダイマルは酒と女性が大好きであり、人気も収入も全盛期であった53歳の時に当時の妻に全ての動産・不動産を譲ることを条件に離婚、32歳年下の女性と再婚した。
この妻(中田和子、中田興芸代表取締役を勤めた)は作家としてダイマルとのドキュメント小説を出版している。
なお、和子夫人はダイマルの長男よりも年下である。この結婚は当時ワイドショーで大変話題となり、バラエティ番組でも司会者からよく突っ込まれていた。

結婚歴は二回であるが、一人目との妻との間の三番目の子どもとは別に、妾の女性との間に次女と同い年の娘がおり、ダイマルのマネージャーを勤めた頃もあった。
また、加齢のためレギュラー番組がなくなってからは特に飲酒量が増え、それがきっかけで胃潰瘍になり、腹膜炎により亡くなった。(享年70、満年齢68)

ラケットは明るく遊び人であった兄ダイマルとは対照に、とても無口で神経質な性格であり、大きな舞台では顔が引きつったラケットをダイマルがニコニコ笑いながら励ます光景がよく見られたそうだ。

代表作に、『僕は幽霊』『家庭混戦記』『僕の恋人君の恋人』『恋の手ほどき』『地球は回る目は回る』『僕は迷医』『僕は迷優』『僕の時計(僕の健康法)』『僕の漂流記』『僕の農園』『僕は小説家』『無線車』『ジャンケン』『僕の発明』などがあり、「いうてみてみ」「きいてみてみ」・「なんじゃとて」・「かわいそうになぁ」・「青火がパァ、ボヤがボォ」・「いっしょやいっしょ~」・「そーやがな、そーやがな、そーやがな」等のフレ-ズが有名。(これらの言い回しは弟子筋にあたる中田カウスに受け継がれている)

読売テレビで主に昭和50年代に放送された「お笑いネットワーク」と「漫才笑学校」の中から、6本を収録したDVDがポニーキャニオンから発売されている。
所属事務所は長年松竹芸能に所属し、道頓堀角座の看板芸人として君臨してきたが、1970年に吉本興業へ移籍した。
これは、吉本に所属していた弟子の中田アップが画策したもので、角座で「とり」(主任)を取ってしかるべき芸人が「とり」を外されたので癪に障って行動に移した。
しかし、皮肉にも吉本移籍後も花月劇場チェーンで「とり」を飾ることは少なかった。

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