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三遊亭圓生(六代目)がまの油(蝦蟇の油)

   

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あらすじ

大道商売の口上と言えば有名なのが「がまの油売り」だ、黒羽二重の紋付き袴姿で、
さあさ、御用とお急ぎでない方はゆっくりと見ておいで……遥か筑波山の四六のがまだ、四六五六はどこで分かる、前足の指が四本後ろが六本……(刀を取り出して紙を切って見せる)一枚が二枚、二枚が四枚……(がまの油を塗って刃を顔に押し付ける)叩いて切れない、押して切れない、引いて切れない。と、名調子で商売をする。
商いが捗ったので、縄のれんでちょっと一杯飲んで、今日はノリが良いからもう少し稼ごうと、酔った勢いで元の場所に店を出した。
さぁさ、ヒック、御用とお急ぎでない方は……これが遥か箱根の山の、いや箱根じゃねぇな、何処かの山だ……(刀の場面で)叩いて切れない、押して切れない、引いて、あれ、引いたら切れちゃった。
慌てず、がまの油をつけると、あれれ、血が止まらない。
さて、お立ち会い、血止めはないか。
※『落語400文字ストーリー』より引用
http://mengjian.blog104.fc2.com/

プロフィール

6代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1900年〈明治33年〉9月3日 – 1979年〈昭和54年〉9月3日)は、大阪市西区出身で東京の落語家、舞台俳優。
本名、山﨑 松尾(「﨑」は右上が「大」ではなく「立」)。
東京の新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。
昭和の落語界を代表する名人の一人と称される。出囃子は『正札付』。
5代目三遊亭圓生は継父、5代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。
また、橘家圓晃(本名:柴田啓三郎)は異父弟。

来歴・人物

出自
1900年(明治33年)9月3日、大阪市西区花園町出身。
生家は名主の家柄で、実父と生家の女中の間に生まれるが、あくまで両親の子供として育てられる。
本名の「山﨑松尾」は「山﨑松雄」のはずだが当人や家族が知らないうちに戸籍上いつのまにか「山﨑松尾」になっておりそのままになった。

幼少期(5~6歳頃)から義太夫の稽古を受ける。
生家の破産後両親が離婚。
母と東京に移住し新宿角筈に居を構える。
豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫の芸人として寄席に出演。
母が5代目三遊亭圓生(当時は橘家小圓蔵)と再婚したため、5代目圓生を「親父」と呼んでいた(5代目圓生は村田姓、当人は山﨑姓で当人同士に養親子関係はないが、いわゆる“義理の親子”であった)。

落語家に転向

909年(明治42年)頃、横浜新富亭で高座に穴が開き、聞き覚えていた落語「箱根山」を口演して場をつなぐ。
旅の仕事で訪れた伊香保温泉の石段で転倒し胸を強打、医師から義太夫を語る事を止められたため、継父の師匠である4代目橘家圓蔵門下に入り橘家圓童の芸名で子供義太夫から落語家に転向する。
以降、師匠と継父の引きで落語家としての実際の位置より優遇されて過ごす。

幼少期は記憶力がよく大人の落語家より早く噺を覚え、師匠や継父くらいの芸はすぐできる、などと思っていたが少年期に自身の芸のまずさに気付いて愕然となる。
生来、大の芸事好きであり優遇されている自覚もあって必死で芸に精進する。

この頃から落語の演目を多数稽古しておりのちに自身の財産になった。
橘家小圓蔵の芸名を経て1920年(大正9年)に5代目橘家圓好で真打昇進し1922年(大正11年)4代目三遊亭圓窓、1925年(大正14年)6代目橘家圓蔵と次々と襲名するが一向に芽が出ず売れなかった。
(大正6年)から1934年(昭和9年)までの間、師匠や継父と共にめまぐるしく所属団体を変わっている。

6代目三遊亭圓生襲名・満州へ

生活が苦しく落語家を断念し舞踊家へ転身を図ろうとした矢先、継父5代目圓生が逝去し1941年(昭和16年)に6代目三遊亭圓生を襲名した。
1945年 (昭和20年)、母親が逝去した5代目古今亭今輔の代わりに満洲映画協会の傍系である満洲演芸協会の仕事で5代目古今亭志ん生や講談の国井紫香らと満州を慰問する。

満洲演芸協会の仕事の他に満洲電信電話の新京放送局が主催した演芸会に5代目古今亭志ん生と呼ばれ、当時アナウンサーだった森繁久彌と出会う。
終戦で帰国不能になり、現地で演芸会などを催しながら引き揚げ船の出航を待ち、生死ギリギリの生活で約2年間暮らした。
妻子を日本に残したまま、生活の便宜上現地で日本人女性と結婚生活を送っている。

1947年(昭和22年)帰国し寄席に出演すると「上手くなった」と言われ、満州での苦労が芸に生きたと自己分析した。
妾馬を演じたところ評判が良く、むやみに客を笑わせようとするのではなく笑いあり涙ありの噺が向いている、と自身の進む方向が見えてきたという。
1953年(昭和28年)、ラジオ東京が8代目桂文楽や6代目圓生ら落語家5人と専属放送契約を締結し、人気落語家の一人になる。

独演会とホール落語

1953年(昭和28年)の麻布の十番倶楽部を皮切りに1954年(昭和29年)から本牧亭で圓生独演会を開き、以降人形町末廣でも開催。
切符がすぐに売り切れる程の人気を博し、人形町末廣の廃業まで続いた。
戦後から盛んに開かれたホール落語は寄席と異なり演目の時間制限が少なく、口演時間の長い演目が多い6代目三遊亭圓生は独演会と合わせて存分に本領を発揮し、名実共に本格の落語家の一人になった。

1960年(昭和35年)に「首提灯」で芸術祭文部大臣賞を受賞。
1965年(昭和40年)8代目桂文楽の後を継いで落語協会会長に就任した。
会員の団体保険加入など協会の近代化を進めて1972年(昭和47年)5代目柳家小さんに会長職を引き継いで最高顧問に就任した。
この年、芸術祭大賞を受賞している。

御前口演・落語協会脱退

1973年(昭和48年)、落語家として2人目の御前公演を依頼され、香淳皇后の古希の祝いの御前で『お神酒徳利(おみきどっくり)』を上演。
この年13枚組LPレコード「人情噺集成」を発表。

以降、「圓生百席」に繋がる大プロジェクトになり、6代目圓生逝去まで続いた。
1978年(昭和53年)落語協会の真打大量昇進に抗議して同協会を脱退(落語協会分裂騒動)。
多くの脱退者が落語協会に戻る中、一門で落語三遊協会を結成。
以降、寄席(落語定席)には出演不能になる。
1979年(昭和54年)3月、歌舞伎座独演会を開催。
9月3日、79歳の誕生日、千葉県「習志野文化ホール」で開催された後援会の集いで小噺『桜鯛』を演じた直後、心筋梗塞を発症。
同日夜半過ぎに急逝した。
享年79。

上野動物園のジャイアントパンダ(ランラン)が9月4日に死んだため、新聞(一般紙)のトップ記事はパンダであったがスポーツ紙は圓生逝去を大きく取り上げた。
後日、津田沼の習志野文化ホール入口近くに圓生を偲ぶ石碑が建立された(2012年現存)。
「あたしは20世紀の生れでげすから」が口癖だったが、上にもある通り4ヶ月ほどの差で19世紀の最後の年の生れである。
「志ん生、文楽、正蔵よりは若い」というニュアンスで言っていた。

「~げす」、「~がす」、「~やす」など、古い戦前の芸人が使った言葉を日常的に話した最後の噺家とされる。
5代目古今亭志ん生は10歳、8代目林家正蔵は5歳それぞれ年上だが普通の東京弁を使っていた。

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 - 三遊亭圓生(六代目)

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