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桂文治(八代目)祇園会(祇園祭)

   

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『祇園会』(ぎおんえ)は古典落語の演目の一つ。
原話は、天保年間に出版された笑話本・「如是我聞」の一遍である『都人』。別題は『京見物』。

京者の暴言に激怒し、怒り心頭で怒鳴りまくる江戸ッ子と、原因を作っておきながらいけしゃあしゃあと京の自慢を続ける京者の対比が特徴の噺。

『祇園会』だけを演じる場合は、『片棒』と同じく祭囃子を口で演じる場面が入るのが通例となっている。

主な演者には、4代目橘家圓喬8代目桂文治などがいる。
とくに8代目文治の口演は演者自身が上方で修業したこともあり、上方と江戸の言葉の使い分けが絶品で、「祇園祭の文治」という通り名で呼ばれていたほど上手だったと言う。

★聴き比べ ⇒ 古今亭志ん生(五代目) 祇園祭(祇園会)

八代目桂文治プロフィール

1883年(明治16年)1月21日 – 1955年(昭和30年)5月20日)
生前は落語協会所属。本名は山路梅吉。出囃子は『木賊刈り』。
母が6代目桂文治の後妻になったためにのちに養子となる。また妻の父は桂文太郎。

人物・略歴

東京の生まれ。はじめは義太夫語り竹本識古太夫。
1898年5月に6代目三笑亭可楽に入門し翁家さん勝となり大師匠6代目桂文治の養子となる。

1902年5月に4代目桂才賀と名乗り二つ目昇進、1906年頃上方で修業し、1908年9月に3代目桂文枝の門下で4代目桂慶枝、師匠文枝死去に伴い、1909年頃に2代目三遊亭圓馬の門下で2代目三遊亭小圓馬、東京に戻り、1911年に3代目桂大和、1913年4月に7代目翁家さん馬襲名、1929年10月に8代目桂文治襲名。

因みに7代目桂文治は、6代目桂文治との約束で一代限りで上方に移っていた為、文治の名跡は再び江戸系統に戻った。
1947年に落語協会初代会長4代目柳家小さんが上野鈴本演芸場で、口演後に急死した為、2代目会長就任。以後1955年に死去まで会長を務めた。後任は元弟子8代目桂文楽であった。

俗に顔が黒くて面長の顔から「写真の原板」「茄子」または根岸に住んでいた事から「根岸の師匠」または落語協会2代目会長であった為に「会長」桂の総家元に当たる為「家元」と呼ばれた。

毛並みの良さと重職にありながら人望がなく、元弟子文楽は花札に爪跡を入れていかさま博打をする文治に「この師匠は大したことがない。」と失望して5代目柳亭左楽門下に移籍したという。

また4代目小さんはあだ名付けの名人で、「デブの圓生」と言われた5代目圓生に「カボチャ」と名付け、8代目文治と5代目圓生がけんかをすると 小さんは「茄子と南瓜のけんかがござる」とひやかした。

若くして江戸・上方の噺に通じ、実力もあり将来を嘱望されたが、文治襲名後は名跡を意識しすぎて伸び悩む。

あれこれと工夫とするが、あくが強過ぎる、邪道に嵌り「ある程度まで行くと止まる芸」と評されるなどの悪循環で、折角の才能を活かせぬまま冷遇され、戦後は昼席のトリを取るくらいで高齢もあいまって小声でぼそぼそしゃべり聞き取りにくかったという、ひどいときは高座の途中で客が帰るときもあった。

晩年は引退同然の状態であった。

持ちネタは多く、特に、京、大阪、江戸の言葉を使い分ける「祇園会」。

「縮上がり」「五人廻し」などの廓噺、義太夫の素養を活かした「義太夫息子」、上方仕込みの「ざる屋」、江戸前では「猫久」、そして「逸見十郎太」「将門」「八百蔵吉五郎」などの芝居噺などを得意とした。

特に芝居噺は父譲りの本格派で初代中村吉右衛門の声色を使ったが、人気役者の声色で芝居噺を演じることのできた最期の噺家でもあり、特別な会では照明に蝋燭を用いるなど江戸時代からの古い演出を行い珍重された。

1955年5月20日に死去した。享年72。墓所は港区光圓寺。

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 - 桂文治(八代目)

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