【落語チャンネル】ネット寄席

落語動画・音声まとめデータベース/世界に誇る日本の伝統芸能 落語ワールドをご堪能下さい

*

三遊亭小圓朝(三代目)権助芝居

   

Sponsored Link

権助芝居(ごんすけしばい)は古典落語の演目の一つで、「権助茶番」「一分芝居」「一分茶番」とも。
大店に雇われている田舎者の権助が主人公。

あらすじ

町内の芝居好きが集まって素人芝居をすることになったのだが役に当たった者の一人が病気を理由に欠席してしまう。

実は病気というのは真っ赤な嘘で、当たった役が気に入らないのでやりたくないのだ。

世話役の番頭さんは困り顔。すると、この店に奉公している飯炊きの権助が芝居の真似事をよくしているというので権助に尋ねてみると、村芝居ではよく役者として舞台に出ることがある(代表的な役は忠臣蔵[1]のお軽)というので、五十銭の小遣いをやるという約束で舞台にあげることにする。

権助の役は「有職鎌倉山」の「非人の権平」という泥棒の役で、主家を牛耳ろうとする悪人の命令で家宝の鏡を宝蔵より盗み出すのだが、警備の侍に見つかってしまい立ち回りの挙句に捕縛される。そして、尋問に口を割ろうとするところへ件の悪人が現れて首を刎ねるという体のいい口封じをされてしまうという散々な物。

権助も何だかんだ言って逃れようとするが、そこは何とかなだめすかして幕を開けることにする。

舞台に出てきたときに鏡を盗んだことを説明する長い台詞を言わなければならないのだが、もちろん覚えている暇などないので、プロンプター役の黒衣をつけて乗り切ることにした。が、権助は教えた台詞を間違えたり田舎言葉丸出しで言ったり、挙句の果てに野次った観客に文句言ったりする始末。

さらには立ち回りの場面で本気で取っ組み合いを始めてしまったりとハプニング続出。

ようやく尋問の場面になるのだが、ここでも観客に「権助、縛られて無様な格好だな」と野次られて、「そんなことはねえだ」と種明かしをして踊り出してしまい、頭にきた相手役が今度は本当に高手小手に縛ってしまう。

そして尋問、

「誰に頼まれた」

「番頭さんに五十銭で頼まれた」

[出典:Wikipedia]

プロフィール

3代目三遊亭 小圓朝(1892年(明治25年)8月8日 – 1973年(昭和48年)7月11日)は、東京府東京市下谷区(現:東京都台東区)出身の落語家。本名は芳村幸太郎。
出囃子は『小鍛冶』。 祖父は三遊亭圓麗(本名:芳村源六)、父は2代目小圓朝という落語一家に生まれる。
1907年2月に父の門下で朝松となり、2、3年ほどで二つ目に昇進し小圓治と改名する。父のドサ廻りに自身もついて行き、2年ほど経った後に帰京する。
それから1917年2月に真打昇進して2代目橘家圓之助を襲名。後に4代目橘家圓蔵に預けられ、1922年5月に4代目三遊亭圓橘を襲名。翌年父小圓朝死去し、1927年3月に3代目小圓朝を襲名。戦時中の1943年5月には船勇亭志ん橋と名乗るが、1947年3月には小圓朝に戻している。
地味であるがしっかりした江戸前の芸の持ち主で『しわい屋』『権助提灯』『あくび指南』『三味線栗毛』『粗忽の釘』『笠碁』『二番煎じ』など持ちネタは多かった。しかし他の大看板の影に隠れ勝ちで、寄席の出番も浅く不当に評価された嫌いはあった。一方、若手や大学の落語研究会の稽古台として多くの人物を育てた。
1967年(昭和42年)7月、脳出血で倒れ高座に上がらぬまま没した。名人と呼ばれた4代目橘家圓喬に容姿・芸風が似ていたために未亡人から襲名を進められるほどで、その名跡を預かる[要出典]ほどだったが晩年は不遇であった。
晩年東大の落研の師となり後世の落語研究家を多く輩出した。
弟子に三遊亭朝之助、3代目三遊亭圓之助、6代目三遊亭圓橘、海老一染之助・染太郎の父にあたる三遊亭圓駒(後の長唄囃子に転向し、望月太意七から望月晴峰になった)がいた。

Sponsored Link

 - 三遊亭小圓朝(三代目) ,

[PR]

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

  関連記事