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古今亭志ん朝 抜け雀

      2014/10/16

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3代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 – 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。
本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。
5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、姪は女優池波志乃(義甥は俳優中尾彬)。
出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。
7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、5代目春風亭柳朝(柳朝が病に倒れた後は8代目橘家圓蔵が称されることも)と共に、『江戸落語四天王』と呼ばれた。
他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。

●来歴・人物

強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。
獨協高等学校でドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、毎年、弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。亡くなるまでドイツ語の辞書を大事に所持しており、棺にも納められたという逸話もある。

父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに上方噺家の6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、押しも押されもせぬ「江戸落語の名人」として名実共に人気を博した。

若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、寄席を何よりも重んじた。独演会のチケットはすぐに完売するほどであり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。
同業者からの評価が非常に高く、毒舌で自尊心の高い7代目立川談志をして「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけだ」と言わせしめている。また、父志ん生のライバル8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と志ん生に述べた。
圓朝とは江戸後期以後、現在の古典落語を確立した噺家であり、落語界ではこの名は誰も継げない止め名とされており、文楽はそれほど志ん朝の芸を愛したと言われている。

また、5年目での真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。
ファンや後輩芸人からは「朝(チョウ)様」と慕われ、父志ん生の破天荒さとは違う正統派の江戸前落語を得意とした。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。
落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。

しかし前者に関しては父志ん生から「車なんざ買うこたぁねぇ」と猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」・「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。

一方では、名古屋大須観音前の大須演芸場を守る足立席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。
「日本一客の入らない演芸場」で「日本一客を呼べる落語家」が公演をするという男気は、斯界の美談の一つとされる。

道頓堀の角座に初めて出演した時、落語が受けないので次の日漫談でごまかしたら大いに受けた。気をよくしていたら、支配人から「あんさんは、落語してもらうために呼んだんでっせ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。だが大阪の客に江戸前落語が受け入れられるまで5年かかった。しかし志ん朝は大阪の街を心から愛するようになったという。

落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は・・・」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。

二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は鰻断ちするよう勧められた。
しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。

1994年、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に「始めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、晩年「ニュースステーション」に出演の際には(「最後の晩餐」コーナー)、「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。
癌による死を前に、食べたいものを聞かれたときも「鰻が食べたい」と語ったという。

晩年、時間がないときなどは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。
自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。
所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望を集めたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、実際のところは58歳から亡くなるまでの5年間副会長職を務めたのみであった。

父、兄同様に酒をこよなく愛し、死の直前まで日本酒を手放さなかったが、最期は肝臓癌のため、家族、弟子に見守られる中、自宅にて眠るように静かに息を引き取った。

●志ん朝に影響を与えた落語家

芸の上では父志ん生を尊敬していたが、芸人としては上方噺家・6代目笑福亭松鶴に心酔し、自身「大阪の角座に出るたびに追っかけまわした」と証言するほどであった。
そんな志ん朝を松鶴もわが子のように可愛がった。
その縁から志ん朝は大阪の寄席にも頻繁に出る機会を得て、大阪の客から「今日のはよかったで」と褒められ芸も上達した。志ん朝にとっては松鶴は芸の恩人であり、遊びを教えてくれたよき先輩でもあった。志ん朝自身、上方落語界復興の苦労話を松鶴から夜を徹して聞かされたのが一番感動した事だと述べている。

6代目三遊亭圓生も敬愛する先輩であった。1978年5月の落語協会分裂騒動では、志ん朝は一時的に圓生と行動を共にして落語協会脱退を表明している。しかし当初見込みとは異なり、寄席の席亭たちは圓生の新団体に寄席出演を許可しなかった。

志ん朝一人だけならば3代目三遊亭金馬のように寄席に出ずに活動することは可能だが、若手の落語家にとって寄席出演は芸を磨くために重要である。預かった弟子の芸を伸ばすことができないのでは師匠としての役目を果たせないと周囲が説得し、志ん朝は脱退を撤回した。

このとき、「これからは芸を見てもらう、それしかありません」と短い決意表明をした。落語協会の会長5代目柳家小さんは香盤を下げずに志ん朝の復帰を受け入れたが、この温情はかえってプライドの高い志ん朝の心に深い傷となって残ったと見る者もいる。

上方の噺家との交流の深さは同世代の東京の落語家の中でも度を抜いていた。前述の松鶴との関係は有名であるが、他には3代目桂春團治・3代目笑福亭仁鶴とは二人会を開くなど親交を深めた。特に春團治とは共に親が落語家であったこともあり双方とも格別の思い入れがあった。

だが二人会になると文字通りの真剣勝負で、二人とも気合いの入った高座となった。春團治は「あの人と会をやるのはすきやったね。
噺家がほれこむってのはあのひとのことやろうかなあ。…くそっ負けるもんかって気持ちになるしね。志ん朝君も春團治に負けるまいって気持ちで、キチっとやってくれるからね。
だからこっちの励みにもなったし、勉強にもなった」と述べた。
円熟期に差し掛かった頃に亡くなった志ん朝については、これからもこのような噺家は出ないのではないかとし、「六十三歳か。早死にやなあ。…」と悼んでいる(岡本和明「志ん朝と上方」アスペクト 2008年 ISBN 9784757214804)。

●略歴

1957年2月 実父5代目古今亭志ん生に入門。前座名は父の前座名朝太。
1959年3月 二つ目昇進。
1961年 NHK『若い季節』レギュラー出演。
1962年5月 5代目春風亭柳朝らと共に真打昇進し36人抜きで、兄弟子金原亭馬太郎(後の8代目古今亭志ん馬)、6代目むかし家今松(後の2代目古今亭圓菊)や三遊亭全生 (後の5代目三遊亭圓楽、同年10月真打昇進)、柳家小ゑん(後の7代目立川談志)、橘家舛蔵(現:8代目橘家圓蔵)等よりも先に真打昇進し、3代目古今亭志ん朝襲名。
映画初出演(東映『歌う明星・青春がいっぱい』)。
フジテレビ『サンデー志ん朝』に司会としてレギュラー出演。
1978年5月 落語協会分裂騒動で落語協会を脱会し落語三遊協会に参加するが、僅か数日で落語協会に復帰。
1990年 大須演芸場での独演会を始める。
1996年8月1日 3代目三遊亭圓歌の後任で落語協会副会長就任。兄馬生も1972年 – 1982年まで落語協会副会長を務めていた。
2001年 芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
10月1日 肝臓癌により、家族に見守られる中、新宿区矢来町の自宅にて死去。享年63。
兄弟子8代目志ん馬と同じ死因であり、亡くなる半年前には弟子の右朝を肺癌で失っている。志ん朝没後の副会長には5代目鈴々舎馬風が就任した。
10月6日 午後1時より護国寺桂昌殿で落語協会葬として営まれた告別式には関係者、ファンなどが2500名以上が訪れ、その死を悼んだ。
戒名は光風院楽誉観月志ん朝居士(こうふういんらくよかんげつしんちょうこじ)。

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