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橘家圓蔵(七代目) 映画の穴

      2014/07/09

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プロフィール

7代目橘家圓蔵(7だいめ たちばなや えんぞう、1902年3月23日 – 1980年5月11日)は、落語家。
生前は落語協会所属。本名・市川虎之助。出囃子は「お江戸日本橋」。

来歴・人物

横浜市生まれ。4歳で父が亡くなりはその後はあちこちを転々とした。1912年に奉公してからも職を次々と変えた。
吉原の牛太郎や、外国航路船のコックをしていたこともある。
1923年7月に8代目桂文楽に入門し桂文雀を名乗るが、師匠文楽の金を日常的に盗んでいた事と、落語家達の間で広まっていた師匠文楽の妻の悪い噂を師匠文楽に伝えた事から破門され、1924年、5年頃に4代目鈴々舎馬風の紹介で7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵)一門に移籍し柳家治助を名乗るが、師匠小三治に冷遇され、2年後に破門され、一時噺家を辞め、寄席で奇術の手伝いや吉原、名古屋、大阪で幇間など様々な職に就いた。

1930年頃に再び噺家に戻り、文楽一門に復帰した。再び名古屋で桜川三平の名で幇間したが戦争で幇間が出来なくなり1941年に二つ目として再度文楽一門で出直した。
1946年3月に4代目月の家圓鏡襲名し、真打昇進。1953年3月に7代目橘家圓蔵襲名。1978年5月、6代目三遊亭圓生が引き起こした落語協会分裂騒動で圓生一門、3代目古今亭志ん朝一門と圓蔵一門と弟子5代目月の家圓鏡(現8代目橘家圓蔵)一門と共に落語協会を脱退するが、後に圓生一門を除いて落語協会に復帰した。
7代目林家正蔵に冷遇されていた事を強く恨んでいた為、正蔵没後に圓蔵一門に移籍してきた正蔵の実子初代林家三平が、東宝名人会で二つ目昇進していたにも関わらず、圓蔵は三平を落語協会の前座から再度やり直しさせるなど、三平はかなり冷遇される事になった。

だが、文楽の縁から三平がテレビに出演する機会を得てたちまち大スターになると、今度は三平を橘家のホープ扱いして、真打昇進に際して自らの前名である「月の家圓鏡」を名乗らせようと画策するなど、節操の無い所を見せて失笑を買ったという。

三遊亭圓丈によると楽屋で後輩を捕まえては「あのね~お前ダメだよ」などと小言を言っていたため、楽屋内では「あのねの圓蔵」と呼ばれていたという。
圓蔵襲名は、圓生が5代目古今亭志ん生と共に満州巡業中に留守中であった圓生一家の世話を焼いた事から、圓生の肝入りで決まったものである。その為、圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動における落語協会脱退は圓生への義理立てもあったが、落語三遊協会設立記者会見では副会長職が与えられた事もあって有頂天となって喜色満面であった。

だが、立ち上げた新団体の所属では高座に上がれぬ事が明らかになるなど形勢不利となるや否や、当初から協会残留の方針を貫いていた弟子三平の説得を受ける形で降参、復帰後は落語協会関係者に土下座して謝罪するなど、やはりその無節操ぶりは相変わらずで、「まぼふく」(幻の副会長との意味)、「円蔵の名を小さくした人」等と陰で言われ憫笑を受ける羽目になった。

また、師匠の言動にいい様に振り回され、挙句に師匠に道連れにされる格好で協会内での立場を失い長い間にわたり苦しむ羽目になった圓鏡たち一門弟子、そして師匠に背いて協会残留したもののこれで圓蔵・圓鏡一門との関係がこじれてしまった三平とその一門にとっては、分裂騒動時の師匠の行動はひたすら迷惑以外の何物でもなかった。
1980年5月11日に死去。享年78。

同年9月には三平もガンで急死、上述した落語協会分裂騒動も一因となって、遺された三平の一門弟子は同系の師匠に頼りたくとも頼れない「落語界の孤児」となり、結局は三平の総領弟子で当時はまだ若手真打の域であった林家こん平が三平一門をほぼそのまま引継ぎ、数々の辛酸を舐めつつも弟弟子たちを育ててゆくこととなる。

噺家としては名人の名をほしいままにした師匠文楽や先代圓蔵である圓生と比べれば遠く及ばず、歴代圓蔵を見ても下の方、かろうじて圓蔵の名を守り通したとすら言われる程の評価で、三平や8代目圓蔵などの弟子の落語の評価にも及ばないとされる。

また昭和後期の演芸史を語る際に避けては通れないテレビの爆笑王三平とラジオの爆笑王圓鏡(8代目圓蔵)の師匠であるが、上述した通り、三平にしても出世の糸口は圓蔵ではなく大師匠文楽の縁から掴み、圓鏡にしても落語一本ではなくラジオスターとしてスターダムにのし上がるなど、弟子運にも恵まれている感がある。

さらに、最晩年の落語協会分裂騒動のドタバタの中で見せた醜態などの印象は根強く、またそれで低下したタレントとしてのイメージを立て直しきれない内に没しており、さらには、三平が死後『昭和の爆笑王』として各種マスコミに伝説的な存在に祀り挙げられるに及んで、「三平を冷遇した鬼師匠」というイメージばかりが付いて回る様になった結果、20世紀後半という比較的近い時代に活動した落語家ながらも、現在では語られる事も少なくなっている。

その死没の2年後には早くも圓鏡が8代目圓蔵を襲名する。だが、これは名跡の重さを鑑みれば異例の事であり、ひとえに落語協会分裂騒動で圓蔵の名跡に付いてしまった不始末の悪印象を払拭する事を期待されてのものであった事は、落語協会関係者がそう口にはしなくとも誰の眼にも明らかであった。

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