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■コント55号 変な時計屋さん/ビールまつり

   

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おかしな時計やさん「動くやつがほしいのかい?」

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プロフィール

コント55号(コントごじゅうごごう)は、萩本欽一(東京都台東区出身)と坂上二郎(鹿児島県鹿児島市出身)のお笑いコンビ。浅井企画所属(55号と坂上単体のマネージメントは浅井企画が行っていたが、萩本単体のマネージメントは浅井企画から暖簾分けをした佐藤企画が実質行っている)。
当たりギャグは「なんで(ど~して)そうなるの!」(萩本)、「飛びます!飛びます!」(坂上)。

1966年、営業先の熱海つるやホテルで「机」の一人コントを考案した萩本が、早速以前出演していた浅草松竹演芸場に売り込みをかけようと準備をしていたところ、たまたま浅草フランス座時代に幕間コントで競演した坂上から電話があり、この電話で坂上の助演が決定。

10月に浅草松竹演芸場の上席前座として「机」を演じたところ、反応が今一つだったため、三日目に役を入れ替えたところ好評を博し、五日目には正式に香盤表に載る事となり、この時支配人から「コント55号」と名付けられた。

2010年まで萩本は茨城ゴールデンゴールズの監督を務めており、その際の背番号「55」はコント55号が由来である。
坂上もまた鹿児島ホワイトウェーブの総監督を務めていた時期があり、背番号もやはり「55」であった。

こうして2人の名は瞬く間に広がり、翌1967年2月14日には日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以降、松竹演芸場の高座で新ネタを降ろし、練り上げて日劇の舞台にかけるといったパターンが続いた。

テレビでは日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)「大正テレビ寄席」に出演。余りに激しい動きをカメラが追いきれておらず、収録後楽屋から逃げ出そうとした2人をディレクターの山下武が止めて逆に詫びた逸話を持つが、この番組の出演で全国的に売れ出し、1968年前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」、続いてスタートした「コント55号の世界は笑う」で人気に拍車がかかった。

この時、「同じコントは(テレビでは)二度とやらない」をキャッチフレーズにし、萩本を「タレ目」、これに対して坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。

やがて野球拳で良くも悪くも一世を風靡し、時代の寵児となった彼らだったが、子供に見せたくないハレンチな俗悪番組としてPTA、地婦連、そして主婦の投書などで槍玉に挙げられ、さらに1970年4月スタートのフジテレビ「コント55号のやるぞみてくれ!」は最高視聴率が11%と振るわず、同じくフジテレビ「コント・カチョ~ン」が7%、さらに日本テレビ「コント55号の日曜特別号」も7%と人気の凋落ぶりが顕著になっていった。
以降はコント55号としての活動よりも単独での活動に重点を置き、テレビ、ラジオ、映画と多方に渡り活躍。

そんなある日、とあるタクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。
このとき、既に坂上は単独で俳優活動を行っており、TBS系の連続テレビドラマ「夜明けの刑事」で主人公の刑事役を演じていた。

萩本は世間が坂上を萩本の相棒ではなく、一俳優として捉えていることを痛感。更に「(自分はただ仕事として相棒をいじっていただけなのに)客には本気でいじめてると思われてる。」とショックを受け、コントを演じ続けられなくなったとして、1975年以降はコンビとしての活動を大幅に自粛。当人達はコント55号をコントコンビではなく単体コメディアン同士のユニットと位置付けていた。
萩本は「コント55号は始まりが無ければ終わりも無い」と語っていた。故にコンビとしての活動を控えても、解散宣言はしていなかった。

2009年、したまちコメディ映画祭in台東において、『第2回コメディ栄誉賞』を受賞。
2010年12月7日BS日テレ『徳光和夫のトクセンお宝映像!』にて、坂上が脳梗塞の影響で首から下が麻痺しており、動きのあるコントが演じられない状況であるため、萩本は「コント55号は終わった」と宣言した。これがコント55号の終了宣言と取れる最初の発言である。
2011年3月10日、坂上が脳梗塞により逝去したため、コンビ活動に事実上ピリオドを打たれることとなった。

コントについて
コントの筋は、坂上扮する善良な普通の一市民が、萩本扮する異常な人物に振り回されるのが多く、所々オーバーな動きがコントに抑揚を付けていた。特に日劇出演を契機に、動きが大きくなり特徴の一つとなった。とりわけ、萩本のツッコミは執拗で、かつ想定外のものが多かった。

萩本が演じる狂気の世界が日常とのギャップもあり、坂上が狼狽もしくは苦笑する事で、十分笑いは取れていた。しかし、これに坂上が倍返しともいえるナンセンスなボケで対処し、笑いを増幅させた。(なお、本筋では坂上がツッコミで萩本がボケである。)ビートたけしは55号の笑いについて「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と分析している。

コント55号のコントは、その殆どを作家の岩城未知男が原作者として手掛けていたが、実際に55号の二人が脚本通り演じる事はなく、殆ど即興劇に近い形に改変されて演じられた。

このため、当時一般にコント55号のお笑いを称して「自作自演」と言われた。岩城はこのことに憤慨したのか、やがてタイトルだけの台本や、一つのイラストだけ描かれた台本をよこすようになり、それに予め萩本が修正(というよりも殆ど創作)を行うようになったと言われている。

なお萩本曰く、もともとは当人たちで脚本を考えていたが、劇場の支配人から「原作者が別にいた方が格好もつくしギャラも別に出る」とアドバイスされたことから岩城に名前だけ出すよう持ち掛けたのが最初で、テレビ出演が増えるにつれスタッフから「作家の岩城さんと打ち合わせをしたいのですが」と言われることが増えたため、岩城自身が脚本を書くようになっていったと語っている。

しかしながら、萩本によれば岩城は、夏場に打ち合わせのため喫茶店に入った際に「今日は熱いねえ」と言いながらズボンのポケットにお冷やをそのまま流し込んだり、表紙に人物の皴の一本一本まで精巧なイラストを描いておきながら「イラストに力を入れ過ぎたので、肝心のシナリオまで手が回らなかった」と中身が真っ白な台本を手渡したりするなど奇人であったといい、実際にコントの台本を作っていたのは萩本だったという。

坂上は「欽ちゃんが台本通りに演じないため、どう演じて良いか分からず即興で対処した。」と回顧していたが、萩本は「二郎さんがなかなか台本通りやってくれなかった。」と証言していた。

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