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三遊亭圓楽(五代目)たがや

   

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あらすじ

花火客でごった返す川開きの両国橋を通りかかった「たがや」(桶屋)が、人込みに押されて道具箱を落としたとたん、輪になっていたタガ(竹の輪)が弾けた勢いで、近くの馬上の殿様の笠を飛ばしてしまった。
「とんだ粗相を申し訳ありません」と平謝り。
「勘弁ならん」と殿様が馬の上で怒る。
「家で、身体の不自由な二親が待ってます」
「くどい」「これだけ謝っても許さねえってんなら、どっからでも切りやがれ、丸太ん棒め、二本差しが怖くて焼き豆腐が食えるか」
馬上の殿様が「無礼者、切り捨てろ」と、家来が刀を抜くと、体をかわして腕に噛みつき、落とした刀を拾って逆に家来を切った。
民衆が草履や下駄を殿様に投げつける。
馬から降りた殿様が槍を構えて睨み合い。
突かれた槍をたがやが片手で掴み、持った刀で槍の穂先を切り落とした。そのまま横に払って、殿様の首が空中にスパーンと上がると、見物一同、
「たぁがや~」
※『落語400文字ストーリー』より引用

http://mengjian.blog104.fc2.com/

プロフィール

5代目三遊亭 圓楽
(さんゆうてい えんらく、1932年12月29日(戸籍上は1933年1月3日) – 2009年10月29日)は、
東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の落語家。
円楽一門会元総帥、元最高顧問。本名、吉河 寛海(よしかわ ひろうみ)。

実家は浄土宗の寺院(日照山不退寺易行院。通称:助六寺)。現役時の芸能事務所の所属は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは、自身の長男が代表取締役を務める個人事務所。

生家である易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興町狭間(現在の住所は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹ノ塚駅)に移転している。
埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型はAB型。
かつて演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。
身長177cmと長身。

若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。

7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊』。

来歴

『笑点』4代目司会者として桂歌丸や林家こん平とともに前身番組の『金曜夜席』(日本テレビ)時代から出演しているメンバーである。
1977年(昭和52年)3月27日、落語に専念するため番組を卒業したが、1982年(昭和57年)12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い、1983年(昭和58年)1月9日から司会者として番組に復帰した。
しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(このためか司会就任後しばらくは様々な紋付を着ており、徐々に紺の色紋付に定着する)。
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「よろずガイダンス」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていたが、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。

これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。
司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった。
23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平の2人だけ。

1988年(昭和63年)に弟子の三遊亭好楽が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。
歴代司会者としては最も長く務めていたが、2001年(平成13年)2月11日の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった(ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗を2回やってしまい、2008年(平成20年)2月10日放送の時は三遊亭楽太郎に「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」とネタにされた。
またさらに同年11月16日の放送でも同様の失敗をしている)。

その後2005年(平成17年)10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養することとなった。
2006年(平成18年)1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。
同年3月18日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。
5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った。
エンディングでの語りは「といったところで笑点はお開き、また来週のお楽しみ、ありがとうございました」である。
2007年(平成19年)1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。

翌2008年(平成20年)3月9日には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子三遊亭鳳楽が行った。
笑点の大喜利には、「実は台本があり、誰がどのような答えを言うかはあらかじめ決まっている」という都市伝説があったが、逝去直前、笑点の司会者時代の回想で、大喜利の際には「あの答えは誰に答えさせようか、視聴率を気にしながらよく悩んだ」と、それを否定する趣旨の発言をしている。
歌丸には「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、好楽・楽太郎ら弟子からはもちろん、他の落語家からも尊敬されていたが、「司会がうまい」などと揶揄(やゆ)されることもあった。
追悼特別企画ではその「緻密な司会ぶり」(ミスの多さ)がネタにされた。

大喜利でのキャラクターについては「大喜利 (笑点)#5代目三遊亭圓楽(笑点4代目司会者)」を参照現役引退、そして逝去『笑点』降板後に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日、2006年6月5日放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。
また同年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵(現:林家木久扇)の応援としてVTR出演している。
2007年(平成19年)2月25日に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。
しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。
口演後の記者会見で現役引退を表明した。

弟弟子の6代目三遊亭圓窓が「まだやれるじゃないの。
高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。
引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。
また2007年(平成19年)4月1日放送『いつみても波瀾万丈』(日本テレビ)の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。
なお、日本香堂のCMは1967年(昭和42年)から2009年(平成21年)まで出演を継続していた。

生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであった。
2007年(平成19年)11月に胃がんの手術を受け、その翌年(2008年)3月には肺がんの手術を受けた。
2008年(平成20年)8月、愛弟子の楽太郎に自らの名跡である圓楽を6代目として襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与となる予定であった)。
このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。

5代目圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。
名前については、木久扇の師匠である林家彦六(ちなみに彼は3代目三遊亭圓楽でもある)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」・「6代目圓楽」とを並立させる(楽太郎は<圓>ではなく<円>を通すと表明)予定であった。
2009年(平成21年)5月、肺がんが再発。

同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。
9月に入院し、本人の意向により10月23日に退院。
自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。
10月29日、肺がんのために長男宅で逝去。
76歳没。

訃報は翌日の10月30日に公表された。
圓楽の逝去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、8代目橘家圓蔵、鈴々舎馬風など多くの落語家が哀悼のコメントを出した。
またかつては笑点の裏番組(『ヤングおー!おー!』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝(現・6代桂文枝)は自らのブログで圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った。

5代目圓楽は2010年(平成22年)2月に行われることになっていた楽太郎の6代目圓楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にしてかなわぬ夢となってしまった。
逝去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページにて哀悼の意を表した。
戒名は、「光岳院情誉圓楽寛海居士」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。
遺影も圓楽が生前に選んでおり、国立演芸場での高座で『芝浜』を演じている際の写真が使われた。
逝去の翌週、2009年(平成21年)11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目を偲んだ。
副音声での解説放送は休止された。

一門・親族による、通夜・密葬は2009年(平成21年)11月4日・5日の両日に代々幡斎場で非公開にて執り行われ、同年11月21日に一門主催による「お別れの会」が東京會舘にて行われた。
この「お別れの会」の席の中で、これまでの「円楽一門会」をそのまま「五代目圓楽一門会」(会長・三遊亭鳳楽)へ改称・改組する方向であることが明らかになった。
その後、日本香堂・毎日香のCFナレーションは、2010年(平成22年)2月28日より、同日の笑点を以て名跡を襲名した直弟子・六代目圓楽が継承している。
また、逝去翌日の『NNN Newsリアルタイム』(日本テレビ)では逝去がトップニュースで報じられた。

著名な武家の出である。
秀吉により鳥取城籠城戦「鳥取城渇え殺し」・鳥取城の兵糧攻め にて滅ぼされた城主・吉川経家(きっかわ つねいえ)とその三男・吉川家好(いえよし)が先祖。
家好は後に鳥取藩池田家の家臣となった。
安政7年に、その末裔=5代目圓楽の曽祖父が切腹をした。
藩翰譜に書いてある(5代目圓楽が鳥取に行ったときに、地元図書館長がそれを教えてくれたという)。
5代目圓楽の曽祖父の切腹=死の瞬間を間近で見ていたのが息子・寛雅=5代目圓楽の祖父であった。
寛雅はわずか7歳であった。

父の死を眼前で目撃し“侍というものは、かくも悲惨なものか、もう厭だ”と思いつめ、武士を辞めて、徳川所縁の増上寺に入り、僧侶となったという。
明治時代に至って、寛雅は苗字を「吉川」(きっかわ)から「吉河」(よしかわ)に改めた。
その息子=5代目圓楽の父も僧侶を継ぎ、易行院住職となる。
当時の同寺は浅草にあった(のち足立区に移転)。
生まれ育った寺には行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、自分の父親がそのうちのどの人かすら分からなかった。
分かったのは5歳ぐらいで、食事時の無作法をたしなめた人がいて、その人との会話の中で初めてその人こそ父であることが判明した。
幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。

腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。
以後は週3回の人工透析を受けるようになる。
血圧はかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかなかったという。
第二次世界大戦では東京大空襲に遭うも、5代目圓楽の一家は一命をとりとめた。
しかし、この戦争は圓楽の進路に影を落とす。
終戦後、「これからは食糧難だから農業だ」という父親の薦めで農民になることを決意するが、当時の東京にはなかなか農業を学べるところがなかった。
結局、隣県でしかも家からかなり遠い埼玉県立杉戸農業高等学校に入学、卒業する。

入門、落語家として

上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する6代目三遊亭圓生に入門する2年前、入門するつもりは無かったが人柄が良さそうだったからと言う理由で2代目三遊亭円歌に落語家になる事について相談をしに行った。
6代目三遊亭圓生に入門する際に「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。
実際に圓楽は30歳を迎える約3ヶ月前に真打昇進した。
落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。
しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるのだという思いで、なんとかスランプを脱出。

のちに自身の代表演目となる「浜野矩随」(はまののりゆき)と重なるようなストーリーである。
後にそれをネタにして若き日の自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「若手の分際で名人とは生意気だ」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。
自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ8代目林家正蔵は師匠圓生と最後までそりが合わなかったとされるが、一方で圓楽は気に入られていたため、5代目圓楽を襲名させたとされる。
なお8代目正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。

『くれ』と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。
圓楽自身は、正蔵に気に入られるきっかけとなったいきさつを以下のように語っている。
圓楽がまだ全生と名乗っていた二つ目の時分、懇意にしていた柳家小半治が亡くなった。
寺院出身の全生は小半治のために経を唱えてやりたいと思い、先輩の7代目橘家圓太郎(当時正蔵門下だった)と古今亭甚語楼 (2代目)に葬式の場所をきいたが二人に嘘をつかれ、結局葬儀に立ち会えなかった。
後日楽屋で二人を見つけて怒った全生は口論となるが、そこへ正蔵が現れた。

「後輩の癖に生意気な口を利くな、俺が相手になってやるから表へ出ろ」と正蔵に叱責され、激昂した全生は「上等だ相手になってやる」と大先輩に向かって返す。
外へ出ると、正蔵は一変して笑顔になり、「あの場では圓太郎等の手前、ああ言わざるを得なかった。
おまえは気が短いようだが、自分も短気では随分と損をしてきたから、気は長く持たなければならないよ」と優しく諭されたという。
それが縁で稽古をたくさん付けてもらうようになり、ゆくゆくは圓楽の名をあげると言われるようになったのだという。

本人が後に語ったところによると、1978年(昭和53年)の落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。
圓楽は6代目圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。
圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)当時圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠と共に落語三遊協会を立ち上げたというわけである。

もしあの当時圓生が引退していたならば、分裂はもちろん死後に第3の行動に出ることもなかったとされる。
ちなみに分裂の過程では弟弟子三遊亭さん生・三遊亭好生が残留し脱落(結果破門された)。
行動を共にした6代目三遊亭圓窓・三遊亭圓彌・三遊亭圓丈等の他の弟弟子は6代目圓生の死後落語協会に復帰している。
立川談志のことは「嫌い」と公言しているが、圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠・5代目柳家小さんであったとされる(上述の分裂騒動時の落語協会会長であったため)。
ただし分裂騒動時の小さんの行動について圓楽は一定の理解も示している上、小さんが会長に就任した直後に圓楽が「10年以上二つ目にとどまっている噺家達を真打に昇進させるべきだ」と小さんに進言もしている。
東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。
「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであったが、弟子たちはその意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して肝心の「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽はついに「若竹」の閉鎖を決意。
以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。
「若竹」閉鎖後は借金返済のために日本中で講演したため、高座から離れる機会が多くなり、圓楽はその時期のことについて「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。
悔やんでも悔やみきれない」と語っている。

なお、不動産会社・永谷商事が東京都墨田区両国に設置した貸ホール「お江戸両国亭」では圓楽一門による定席が執り行われている。
弟子の三遊亭楽太郎に6代目圓楽を継がせることについては、死んでから誰かわからないものに襲名させるよりは自分が健在であるうちに決めてしまおうというとの意向から、林家木久扇が子息に2代目木久蔵を襲名させたのに続き、生前の襲名に踏み切ったとのことだった。
エピソード本人は落語家としてやっていくつもりはなく、一時期は事実上テレビ専業の「落語家タレント」であった。
その代わりレギュラーは多くバラエティ、ドラマ何でもこなした。

圓楽は「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。
例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。
前田憲男とプレイボーイズのLP『円楽のプレイボーイ講座 12章』がそのあらわれである。
このLPは横山剣(クレイジーケンバンド)により絶賛され、2001年(平成13年)にCD化(2008年、紙ジャケットCDとして再発。
2010年には通常版で再々発)。

ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。
師匠圓生に諭されて本格的に落語を精進するまでは、バラエティータレントの一人として数多くのテレビ番組に出演していた。
圓楽主演のテレビドラマ『笑ってよいしょ』(東映製作・日本テレビ系列)までが制作され、野末陳平と一緒に歌ったドラマタイトルと同じ曲名の主題歌「笑ってよいしょ」を発表する。
後にソニー・ミュージックで発売されたコミックソングを集めたコンピレーションCD・「SMILE」に収録された。
そのライナーノーツによると「ソニーミュージック最古のコミックソング」という。

また、日活の映画『ハレンチ学園』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。
「星の王子さま」時代のキャラについては「テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って」自らが意図的に演じたキャラだったと『いつみても波瀾万丈』出演時に語っていた。
ちなみに圓楽がタブーとしていたことの一つは「キザになってはいけない」ことだそうである。
なお、圓楽を除く圓楽一門の落語家が所属する芸能事務所『星企画』の名はこの「星の王子さま」に由来している。
また、「星の王子さま」で売り出した時期より長い間パンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。
プロレス団体のFMWのコミッショナーも務めていたことがある。

師匠の厳命により1977年(昭和52年)に「タレント廃業宣言」をするまで、落語に全力を注ぐことはなかった。
タレント廃業宣言は徹底したもので、『笑点』含む全レギュラー出演から降板した。
1983年に司会者として『笑点』に復帰した後もテレビのレギュラー番組は原則として『笑点』とNHK総合『お好み演芸会』以外に持たなかった。
6代目圓生・圓楽らはその翌年落語協会分裂騒動を起こす。

背広には、高座名や本名ではなく「革命児サパタ」とネームを入れていた(6代目圓楽談)。
同名の映画が好きだったのか、その映画の主人公であるメキシコの革命家エミリアーノ・サパタを尊敬していたのか、そのサパタを演じたマーロン・ブランドのファンだったのか、詳細は不明。
読売ジャイアンツのファンであり、ジャビットの絵が描かれた扇子を持っていた。
麻雀の腕前はプロ級だった。

行きつけの雀荘は旧日本テレビ本社ビル近く・二番町にあった「サラブレッド」。
面長(顔が長いこと)で知られ、笑点でもネタにされることが、没後の現在に至っても多々ある。
前述の「行きつけの麻雀店名」も相まって、あだ名は「馬」。
馬扱い・馬呼ばわりされるネタも多々見られる。
小言も長い。

反対に弟子の六代目圓楽は「自己の自慢話が長い」といずれもネタにされることが多々ある。
甘党であることで知られ、それに関わるエピソードも多々ある。
加糖練乳を直接食することを好んでおり、地方での仕事の際にイチゴに掛けるために出された練乳を直接飲んで、挙げ句にお代わりまで求めたことを、その場に居合わせた林家木久扇によって後にネタにされている。
木久扇曰く、当時、「この練乳というものはだな、戦時中は大変高価な物であって……」と圓楽は蘊蓄を語り出したらしい。
また、弟子を全員集めて小言をついていた際に、圓楽の目の前に大型の羊羹が2棹あり、小言をつきながらも鋏を使いながらバナナを食するように皮膜を剥がして、しゃべりながら2棹とも平らげてしまった、ということもある(当然、羊羹が口に入った状態でしゃべったときは、話し声がモゴモゴしていた)。

小言はいつものように長かったが、楽太郎曰く、羊羹が気になって、弟子一同、圓楽本人の小言の内容は誰も聞いていなかったとのこと。
好々爺然とした晩年の司会振りとは対照的に、世相問題などでは保守的な持説があり、教育問題に関しても著書やインタビューで父権復活を訴えていた。
いじめ自殺が社会問題化した際には「いじめをやるような子供は、島に隔離して怖い先生に鍛え直してもらえばいいんだ」と発言し物議を醸したことがある。
自由民主党の大物政治家で衆議院議長・文部大臣を務めた灘尾弘吉と親戚関係だった(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)。
この件はテレビや雑誌でも本人が語っていた。

また内閣総理大臣を務めた三木武夫、福田赳夫といった大物政治家とも交友関係にあった為、1986年(昭和61年)の参議院選挙の際には出馬を打診されてもいるが、実現はしなかった。
1972年(昭和47年)6月14日に発生した日本航空ニューデリー墜落事故で、客室乗務員だった実妹(当時23歳)を亡くしている。

その事故の直前、圓楽が実家の本堂で睡眠していると、誰も叩いてないはずの木魚の音に目を覚まさせられ、その直後に実妹の訃報が届いたという。
1988年(昭和63年)には、実家の寺院へ自身の墓を生前建立していた(いわゆる「寿陵」)。

自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立したとのこと。
寺の生まれであるため、その墓石の素材等にもこだわりを持っていたと、6代目圓楽襲名決定記者会見の中で明らかにしている。
墓石には「円楽之墓」と刻まれている。
また、自らの墓の隣には航空機事故で早世した実妹(先述)の供養観音を建立している。

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