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露の五郎兵衛(二代目)プロフィール

      2018/09/21

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プロフィール

2代目 露の五郎兵衛(2だいめ つゆの ごろべえ、1932年3月5日 – 2009年3月30日)は、上方噺家、大阪にわかの仁輪加師(にわかし)。
本名: 明田川一郎。中国の汕頭日本東国民学校高等科卒業。
人情噺や怪談噺、芝居噺を得意とした。
上方落語協会会長、日本演芸家連合副会長、番傘川柳本社同人、日本脳卒中協会会員などを務めた。MC企画、五郎兵衛事務所に所属。
双子の娘がおり、姉は女優の綾川文代で自身も「露のききょう」を名乗る落語家でもある。
妹は一般人で単立・西宮北口聖書集会の牧師と結婚をしている。
キリスト教徒であり、教会やキリスト教テレビ伝道番組の「ハーベスト・タイム」等で落語や講演なども行った。これは、次女の菅原早樹がキリスト教徒になったことに影響されたもので、2003年に当時滋賀県栗東市の栗東キリスト教会の牧師であった娘婿によって、妻と共に洗礼を受けた。これに関する著書もある。

祖父母が京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた縁で子役で1938年12月の7歳で羅門光三郎主演の「孫悟空 一走万里の巻」に出演。
その後を端役などで映画に出演。
後に中国でに渡り、中国にて終戦を迎える。

1946年に京都に家族共々引き揚げた。同年に生活の糧を得る為に芦乃家雁玉の主宰する「コロッケ劇団」に所属し地方を巡業や京都の富貴にて前座修行する。
1947年11月、戎橋松竹の楽屋で2代目桂春団治にスカウトされる形で、まずは芦乃家一春を名乗り、その後正式に入門して春坊を名乗った。
落語家として初舞台は京都座だという。
以降、2代目春団治の側近、怪談噺では三遊亭志ん蔵の元で幽霊役を演じたりして修業を重ねた。
1953年、上方若手落語家が戎橋松竹派と宝塚落語会派に分裂した際に、宝塚へ行く。しかし、そのまま軽演劇の宝塚新芸座に入団し、主に俳優として活躍。
その後の1959年、上方落語協会に入会し、松竹芸能に所属。道頓堀角座等に出演した。
1960年10月、2代目桂小春団治を襲名。
1963年、日本ドリーム観光へ移籍。
千日劇場の「お笑いとんち袋」(関西テレビ、3代目桂米朝司会)での名回答者として活躍。
1967年4月、吉本興業に移籍。
1968年4月に吉本側から改名を促され、上方(京都)落語の祖・露の五郎兵衛の流れを汲む2代目露乃五郎を襲名した[2]。
1980年、吉本興業を離れてフリーとなった。
1985年、文化庁芸術祭賞受賞。1987年に漢字表記を「露の五郎」に改める。
前座時代は初代桂春団治を踏襲するなど爆笑派だった。若い頃から東京の落語界との交流を持ち、2代目三遊亭百生(元は上方落語家で、師匠・2代目春団治の兄弟子で3代目桂梅團治を名乗っていた)に私淑し、怪談噺大家・8代目林家正蔵(後の林家彦六)からも、いくつかの噺をもらっている。
また、落語協会の客分となり、定期的に東京の寄席に出演していた時期もある。
大阪にわかの数少ない伝承者の一人でもあり、2代目一輪亭花咲に師事し2代目大阪屋町人や3代目一輪亭花咲を襲名した事もある。
弟子の露の団四郎に一輪亭花咲を譲り自ら初代露の五郎兵衛が晩年名乗った露休を一寸露久(ちょっとろきゅう)という形で襲名した[3]。
1994年、上方落語協会会長就任、2003年まで務めた(後任は桂三枝)。
2000年、紫綬褒章受章。
2002年、9月、脳内出血、11月には奇病の原発性マクログロブリン血症を患った。
2005年10月、芸名の元である2代目露の五郎兵衛襲名。目標として「生涯未完成」を掲げる。
2007年11月、旭日小綬章受章
2009年3月30日、多臓器不全のため77歳で死去。
2012年1月、第15回上方演芸の殿堂入り。

得意ネタ

東京の落語界と交流が多い事から東京のネタを改作したのも演じる。
あみだ池、浮世床、蛸坊主、大丸屋騒動、深山隠れ、猫の災難、筍手打ち、羽根突き、大名道具、ねずみの耳、村芝居、赤穂城断絶、西遊記、鉄砲勇助、めがね屋盗人、目薬、近江屋丁稚、雪の戸田川、雪の子守唄、初天神、うなぎや、延陽伯、正本芝居噺・加賀見山、夢八、真景累ヶ淵通し、四谷怪談、他多数
またクリスチャンということもあり次女との共作の福音落語(別名、神方噺)もある。
反面、クリスチャンの厳格なイメージと異なり、かなりキワドイ艶笑噺も得意としていた。
東の旅は晩年の五郎兵衛時代に全篇演じ、またその名所を巡るという壮大な計画を立てていた。

書籍・CD

五郎は生涯未完成―芸と病気とイエス様(マナブックス/いのちのことば社)

映画

鬼の詩(1975年)
好色源平絵巻(1977年)
好色花でんしゃ(1981年)
ニワトリはハダシだ(2004年11月)

エピソード

2代目春団治の側近として、常に側にいて共に行動していた。
一方、2代目の実子である兄弟弟子の3代目桂春団治は実父からほとんど稽古を付けて貰っていなかった。
このため、2代目のことを訊かれた際に3代目は、「2代目については私ではなく、露の五郎(当時)に訊いて下さい」と返答していた。
若手時代、桂米朝と同居していた。この件について「にいさん(米朝)と同棲してましたんや」と自著に記している。
なお、後年この米朝門下の枝雀・ざこばと対立することになった(落語協会から上方落語協会への復帰後すぐに米朝をさしおいて会長に就任した経緯に反発した枝雀一門が上方落語協会を脱退し、ざこば一門も追随する形となった)のは皮肉な結果である。

米朝によれば、「お笑いとんち袋」はヤラセ無しのぶっつけ本番だったが、小春団治(当時)は予め馴染みの客に題を仕込んでおき、その客の掛け声で即興を演じていたとのこと。
米朝は当初この事を知らず、名回答振りに感心していたが、共演者の3代目文我がバラした。(もっとも、この客が米朝に指名されなければ意味がない話ではある。)
また、米朝の得意ネタに関連した回答ではわざと中途半端に答えていた。司会の米朝が補足しオチを解説することで司会者を立て、また番組を成立させていたなどなかなか機転が利いていたという。

露の五郎兵衛の2代目を襲名する契機となったのは、坂田藤十郎の4代目襲名である。
自宅の塀に大きな家紋を描いていた。「カモーン」(come on! =千客万来)の洒落。
宝塚新芸座に所属していて落語家としては一時離れていたこともあり上方落語協会発足には参加しておらず、3代目桂春団治の襲名に乗じて、3代目門下に入るといことで上方落語協会の末席の香盤で、同じく一・一(のちの林家染語楼)と同時に加盟を許される。
熊沢天皇(熊沢寛道)の侍従長として半年仕えた事がある。

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